2月27日は、「時宗二祖真教上人御忌」です。「御忌」とは「貴人や祖師などの年忌の法会を敬っていう語」(広辞苑)です。
時宗の二代目のお上人である真教上人は、一遍上人が建治三年(1277)に九州を訪れた際に弟子入りし、その後13年間にわたり片時も離れず一遍上人に付き従ったそうです。一遍上人没後に二代上人となり、16年間にわたり、主として北陸・関東を遊行しました。そして、真教上人は、宗祖一遍上人の志を受け継ぎ、時宗を「教団」としての形に整えられました。そのご功績は、今日まで脈々と続く時宗の礎となっているのです。
さて、真教上人と言えば「御砂持」です。これは、正安3年(1301年)に、真教上人が越前国に遊行した際、氣比社(のちの氣比神宮)の参道がぬかるみ民衆が難渋しているのを見て、自ら砂を運び修繕したという故事です。この故事にちなみ、現在でも遊行上人の交代時にはお砂持ちの神事が行われています。また、松尾芭蕉は、元禄2年(1689)8月14日、『おくのほそ道』の旅で敦賀を訪れ、「遊行のお砂持ち」の故事を聞き、「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んでいます。
千代田区大手町に「将門塚(しょうもんづか、まさかどづか)」という、平将門の首を供養するとされる塚があります。平将門は平安時代中期、関東で反乱を起こして敗死した(承平天慶の乱)武将です。将門塚がある地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれ、住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきました。徳治2年(1307)、諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教上人が、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈り、荒れ果てていた首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立して整備し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗芝崎道場に改宗したということです。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えました。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられますが、今なお神田明神とともに首塚を護持しているのです。
真教上人は、一遍上人から教えを受け継ぐだけでなく、それを形に整え、未来へと手渡されました。御砂持も、将門塚の供養も、すべては「人が安心して生きられる社会」を願う行為であったと言えるでしょう。二祖真教上人御忌にあたり、その実践の姿に学びながら、私たちもまた、それぞれの立場で次代へと志をつなぐ役割を果たし、人に安心をもたらす存在でありたいと心新たに思う次第です。
時宗の二代目のお上人である真教上人は、一遍上人が建治三年(1277)に九州を訪れた際に弟子入りし、その後13年間にわたり片時も離れず一遍上人に付き従ったそうです。一遍上人没後に二代上人となり、16年間にわたり、主として北陸・関東を遊行しました。そして、真教上人は、宗祖一遍上人の志を受け継ぎ、時宗を「教団」としての形に整えられました。そのご功績は、今日まで脈々と続く時宗の礎となっているのです。
さて、真教上人と言えば「御砂持」です。これは、正安3年(1301年)に、真教上人が越前国に遊行した際、氣比社(のちの氣比神宮)の参道がぬかるみ民衆が難渋しているのを見て、自ら砂を運び修繕したという故事です。この故事にちなみ、現在でも遊行上人の交代時にはお砂持ちの神事が行われています。また、松尾芭蕉は、元禄2年(1689)8月14日、『おくのほそ道』の旅で敦賀を訪れ、「遊行のお砂持ち」の故事を聞き、「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んでいます。
千代田区大手町に「将門塚(しょうもんづか、まさかどづか)」という、平将門の首を供養するとされる塚があります。平将門は平安時代中期、関東で反乱を起こして敗死した(承平天慶の乱)武将です。将門塚がある地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれ、住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきました。徳治2年(1307)、諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教上人が、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈り、荒れ果てていた首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立して整備し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗芝崎道場に改宗したということです。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えました。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられますが、今なお神田明神とともに首塚を護持しているのです。
真教上人は、一遍上人から教えを受け継ぐだけでなく、それを形に整え、未来へと手渡されました。御砂持も、将門塚の供養も、すべては「人が安心して生きられる社会」を願う行為であったと言えるでしょう。二祖真教上人御忌にあたり、その実践の姿に学びながら、私たちもまた、それぞれの立場で次代へと志をつなぐ役割を果たし、人に安心をもたらす存在でありたいと心新たに思う次第です。

























