先日、ある大学の高大連携協議会に役員として参加してきました。
その中で、大変印象に残った話がありました。どのような話しかというと、その大学が長年実施してきた高大連携事業の1つである「全国高校生理科・科学論文大賞」を、本年度は実施見送りにしたというのです。その理由として挙げられたのは、生成AIの急速な普及でした。応募論文がAIによって作成される可能性があり、「本人の探究成果をどのように評価するか」が極めて難しくなっているということでした。
この話を聞き、私は大変複雑な思いになったのです。長い期間実験を繰り返し、観察を積み重ね、調査を続け、失敗を重ねながらも考察を深めている高校生たちがいます。そうした生徒たちにとって、自らの研究成果を論文として発表する機会は、大きな挑戦であり、成長の場でもあります。それだけに、今回の実施見送りは、熱心に探究活動へ取り組んでいる高校生にとって、大変残念な出来事であると言えるでしょう。
一方で、主催者側の苦悩も理解できます。現在の生成AIは、文章作成だけでなく、構成や考察、場合によっては研究テーマの整理まで支援できるようになっています。そのため、「どこまでが本人の思考で、どこからがAIによる補助なのか」を見極めることは、年々難しくなっています。
しかし、本来の科学探究の価値は、単に「整った文章を書くこと」だけにあるのではありません。自分自身で疑問を持ち、試行錯誤し、
データと向き合い、失敗から学び、自分の言葉で説明しようとする。その過程にこそ、探究の本質があります。
これからの教育は、「AIを使ったか、使わなかったか」を単純に問うのではなく、AIを活用したとしても、その中に本人ならではの問いや発見、思考の痕跡があるかどうかを見極めることが、ますます重要になっていくのだと思います。
生成AIの登場は、教育に大きな変化をもたらしています。それは時に難しい課題を突きつけますが、同時に「本当に育てたい力とは何か」を改めて考える機会でもあるように感じています。
その中で、大変印象に残った話がありました。どのような話しかというと、その大学が長年実施してきた高大連携事業の1つである「全国高校生理科・科学論文大賞」を、本年度は実施見送りにしたというのです。その理由として挙げられたのは、生成AIの急速な普及でした。応募論文がAIによって作成される可能性があり、「本人の探究成果をどのように評価するか」が極めて難しくなっているということでした。
この話を聞き、私は大変複雑な思いになったのです。長い期間実験を繰り返し、観察を積み重ね、調査を続け、失敗を重ねながらも考察を深めている高校生たちがいます。そうした生徒たちにとって、自らの研究成果を論文として発表する機会は、大きな挑戦であり、成長の場でもあります。それだけに、今回の実施見送りは、熱心に探究活動へ取り組んでいる高校生にとって、大変残念な出来事であると言えるでしょう。
一方で、主催者側の苦悩も理解できます。現在の生成AIは、文章作成だけでなく、構成や考察、場合によっては研究テーマの整理まで支援できるようになっています。そのため、「どこまでが本人の思考で、どこからがAIによる補助なのか」を見極めることは、年々難しくなっています。
しかし、本来の科学探究の価値は、単に「整った文章を書くこと」だけにあるのではありません。自分自身で疑問を持ち、試行錯誤し、
データと向き合い、失敗から学び、自分の言葉で説明しようとする。その過程にこそ、探究の本質があります。
これからの教育は、「AIを使ったか、使わなかったか」を単純に問うのではなく、AIを活用したとしても、その中に本人ならではの問いや発見、思考の痕跡があるかどうかを見極めることが、ますます重要になっていくのだと思います。
生成AIの登場は、教育に大きな変化をもたらしています。それは時に難しい課題を突きつけますが、同時に「本当に育てたい力とは何か」を改めて考える機会でもあるように感じています。

























